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筆塚(ふでづか)

更新日:2017年6月27日

画像 妙見尊の筆塚(市指定文化財)
妙見尊の筆塚(市指定文化財)

筆塚ふでづかは書道の師や文筆家が死亡した際に、その人物の功績をたたえて門弟もんていたちによって建てられた一種の供養塔くようとうです。石碑には、その人物の功績や由来、辞世じせいの歌、門弟もんていたちの氏名などを記したものが多く、その地域の教育の記録として重要な資料となります。
市内には、神社や寺院の境内などに江戸時代後期から明治時代にかけて建立された筆塚がみられます。その中で特に重要な3基について次に紹介します。

妙見尊みょうけんそんの筆塚(市指定文化財)

百村の妙見尊みょうけんそん境内には、江戸時代後期の百村出身の書家百瀬雲元ももせうんげんの手による銘文めいぶんが刻まれた筆塚ふでづかが建立されています。百瀬雲元ももせうんげん宝暦ほうれき13年(1763年)に百村の名主なぬし榎本六左衛門えのもとろくざえもんの二男(冨八郎とみはちろう)として生まれ、後年江戸に出て百村冨之進もむらとみのしんと改名し御家人ごけにんとなりました。そして書家の百瀬耕元ももせこうげんに師事し、雲元うんげんと称して多くの門人を育てたといわれます。天保てんぽう2年に隠居して故郷の百村に移り住みました。雲元が還暦をむかえた文政ぶんせい6年(1823年)に、多くの門人たちの協力によってこの筆塚が建てられました。石碑の銘文めいぶんには、菅原道真すがわらのみちざねを祭る石祠とともに、廃筆はいふでを埋めた筆塚を建立したことが記されています。

穴澤天神社あなさわてんじんしゃの筆塚(市指定文化財)

矢野口の穴澤天神社境内には、文久ぶんきゅう3年(1863年)建立の筆塚があります。この筆塚は江戸時代の後期に筆学を業とした原田金陵はらだきんりょう天真堂てんしんどうという)の功績をたたえて、矢野口村・長沼村・押立村・五反田村の門弟もんてい164名によって建てられました。原田金陵はらだきんりょうは江戸時代に現在の府中市で筆学ふでがくを業として原田塾はらだじゅくを開いた原田玄藩はらだげんば誠堂せいどうという)の弟子で、川崎市多摩区菅の福泉寺ふくせんじ(今は廃寺はいじ)に住んで手習塾てならいじゅくを開き、矢野口においても教えていたと伝えられています。筆塚ふでづかの表面には原田金陵はらだきんりょう自身の筆による「筆塚」という文字が大きく刻まれており、裏面には辞世じせいの歌、台石だいいしには世話人せわにんと矢野口村、押立村、長沼村、五反田村の門弟もんてい164名の名前が刻まれています。原田金陵はらだきんりょうという人物の指導範囲の広さを示している資料といえます。

妙覚寺みょうかくじの筆塚(市指定文化財)

矢野口の妙覚寺みょうかくじ境内に、嘉永かえい7年(1854年)建立の筆塚があります。この筆塚は指導者の永年にわたる学業指導の功績と徳をたたえて建てられたもので、石碑の表面には指導者であった角田かくたすず女の「紫の雲の迎を待つばかり、うき世の事はとにも角にも」という辞世じせいの歌が刻まれています。また台石だいいしの表、左右側面には、矢野口村・長沼村・押立村・菅村の49名の筆子ふでこ代表者の名前が刻まれています。穴澤天神社の筆塚と同じく、稲城市域の村々だけでなく周辺の村々にも指導範囲が広がっていたことがわかります。(参考資料 『稲城市の石造物・続』『稲城市史』上巻第4編)

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稲城市 教育部 生涯学習課
東京都稲城市東長沼2111番地
電話:042-377-2121 ファクス:042-379-0491

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