旧道沿いに並ぶ馬頭観世音塔
馬頭観世音塔(市指定文化財)
馬頭観世音の信仰は奈良時代頃から始まると考えられていますが、盛んなものではなく、盛んになるのは江戸時代後半からです。これは農村に馬が普及し、馬の果たす役割が大きくなったためと思われ、各地にその信仰を記念して石塔が造立されるようになりました。農作業や荷物の運搬には馬が使われることが多く、それに伴って病気や事故で死んだ愛馬を供養することもふえたと思われます。また旅の安全や五穀豊穣、平和への祈念などの信仰も合わせて行われるようになりました。
市内の馬頭観世音塔を見ると、江戸時代の後半から昭和30年代にかけて45基の石塔が残っています。この中でも歴史の古い江戸時代の馬頭観世音塔についてご紹介します。
最も代表的なものは、矢野口の中島に所在するもので、14基の馬頭観世音塔が旧道にそって並んでいます。中央にある石塔は文化13年(1816年)の造立で、市内最古の馬頭観世音塔です。また最も大型(高さ184センチ)の石塔であり、本格的な馬頭観世音の浮彫りを施している点も注目されます。石塔の台石には願主谷埜口邑(矢野口村)をはじめ、近隣の19か村の名前が刻まれていて、これらの村々の協力によって石塔が造立されたことがわかります。石塔の建つ旧道が矢野口の渡船場に通じていることから、渡船を利用する村々が交通の安全を祈念して建てたと思われます。この石塔は馬の役割と渡船場の重要さを示す資料として市指定文化財になっています。
市内にある馬頭観世音塔
市内にある馬頭観世音塔の分布状態を見てみると、総数45基のうち18基が矢野口地区にあり、集中した分布状態を示しています。このうち14基は矢野口の渡船場に近い旧道ぞいにあるもので、これを除くと他地区とほぼ同じような分布状態となります。全体として数量は多くなく、市内の旧道沿いを中心として各地域に分散して建てられています。
造立年代は、最も古いものは文化13年(1816年)、最も新しいものは昭和39年(1964年)で、江戸時代後期から明治・大正・昭和と大変長期間に及んでいます。約150年間に造られ続けられた石塔を時代ごとに分けると、江戸6基、明治16基、大正9基、昭和9基、となり明治時代が最盛期であったことがわかります。
石塔の形について見ると方柱形と駒形(石塔の頂部が将棋の駒形をしている)が中心であり、一般的な傾向といえます。また石塔の表面の状態は「馬頭観世音」という文字だけが刻まれたものがほとんどであり、本格的な浮彫りによって三面八臂を表わした馬頭観世音像は矢野口・中島の1例のみです。文字の上に馬の顔を浮彫りしたものが3例見られます。
市内で見られる馬頭観世音塔のいくつかをご紹介します。
1は大丸の谷戸川橋の近くにあるもので、市内で2番目に古い文政13年(1830年)の造立です。大丸村の講中によって建てられたものです。
2は平尾の近隣公園の北側にあるもので、石塔の側面に馬の名前と没年が刻まれていて愛馬の供養のために建てたことがわかります。
3は押立の渡船場道に面した所にあり、馬首の浮彫りが見られます。
地域別の分布状況
地域 |
数量 |
矢野口 |
18 |
押立 |
3 |
東長沼 |
6 |
大丸 |
1 |
百村 |
3 |
坂浜 |
8 |
平尾 |
6 |
合計 |
45 |
1.大丸の馬頭観世音塔
2.平尾の馬頭観世音塔
3.押立の馬頭観世音塔