妙見尊の筆塚(市指定文化財)
筆塚は書道の師や文筆家が死亡した際に、その人物の功績をたたえて門弟たちによって建てられた一種の供養塔です。石碑には、その人物の功績や由来、辞世の歌、門弟たちの氏名などを記したものが多く、その地域の教育の記録として重要な資料となります。
市内には、神社や寺院の境内などに江戸時代後期から明治時代にかけて建立された筆塚がみられます。その中で特に重要な3基について次に紹介します。
妙見尊の筆塚(市指定文化財)
百村の妙見尊境内には、江戸時代後期の百村出身の書家百瀬雲元の手による銘文が刻まれた筆塚が建立されています。百瀬雲元は宝暦13年(1763年)に百村の名主榎本六左衛門の二男(冨八郎)として生まれ、後年江戸に出て百村冨之進と改名し御家人となりました。そして書家の百瀬耕元に師事し、雲元と称して多くの門人を育てたといわれます。天保2年に隠居して故郷の百村に移り住みました。雲元が還暦をむかえた文政6年(1823年)に、多くの門人たちの協力によってこの筆塚が建てられました。石碑の銘文には、菅原道真を祭る石祠とともに、廃筆を埋めた筆塚を建立したことが記されています。
穴澤天神社の筆塚(市指定文化財)
矢野口の穴澤天神社境内には、文久3年(1863年)建立の筆塚があります。この筆塚は江戸時代の後期に筆学を業とした原田金陵(天真堂という)の功績をたたえて、矢野口村・長沼村・押立村・五反田村の門弟164名によって建てられました。原田金陵は江戸時代に現在の府中市で筆学を業として原田塾を開いた原田玄藩(誠堂という)の弟子で、川崎市多摩区菅の福泉寺(今は廃寺)に住んで手習塾を開き、矢野口においても教えていたと伝えられています。筆塚の表面には原田金陵自身の筆による「筆塚」という文字が大きく刻まれており、裏面には辞世の歌、台石には世話人と矢野口村、押立村、長沼村、五反田村の門弟164名の名前が刻まれています。原田金陵という人物の指導範囲の広さを示している資料といえます。
妙覚寺の筆塚(市指定文化財)
矢野口の妙覚寺境内に、嘉永7年(1854年)建立の筆塚があります。この筆塚は指導者の永年にわたる学業指導の功績と徳をたたえて建てられたもので、石碑の表面には指導者であった角田すず女の「紫の雲の迎を待つばかり、うき世の事はとにも角にも」という辞世の歌が刻まれています。また台石の表、左右側面には、矢野口村・長沼村・押立村・菅村の49名の筆子代表者の名前が刻まれています。穴澤天神社の筆塚と同じく、稲城市域の村々だけでなく周辺の村々にも指導範囲が広がっていたことがわかります。(参考資料 『稲城市の石造物・続』『稲城市史』上巻第4編)
妙見尊筆塚の銘文
穴澤天神社筆塚の銘文
妙覚寺筆塚の銘文
穴澤天神社の筆塚(市指定文化財)
妙覚寺の筆塚(市指定文化財)