妙覚寺の板碑(市指定文化財)
板碑の各部名称
板碑の歴史
板碑は鎌倉時代から安土桃山時代(13世紀から16世紀)にかけてつくられた供養塔で、死者の追善や後世の安楽を願って、全国各地で造立されました。
各地方で使用する石材が異なるために、形の違うものもありますが、多くは次のような形態をしています。全体的な形態は板状をしていて、最上部は三角形の山形につくられています。その下部には二条線や切り込みを施し、主体部と区別されています。主体部には長方形に区画した中に、如来や菩薩を梵字や画像であらわした種子、天蓋・蓮台・花瓶などの文様、紀年銘や供養者名などが刻まれています。
板碑の発生は関東武士の本拠地である武蔵国中北部であると考えられています。埼玉県には、現在のところ最古とみられる嘉禄3年(1227年)の板碑があり、この地方から徐々に周辺地域に広まり、やがて全国に分布するようになったとみられます。全国的にみると関東地方で最も多くつくられていることがわかり、これは埼玉県秩父地方で産出する緑泥片岩(青色で加工が容易な岩石)を使ったためであり、武蔵型板碑と称されています。鎌倉時代に始まった板碑の造立の風習は、武蔵国を中心に盛行し、中世の終末には姿を消してしまいます。江戸時代に入るとまったく跡絶えてしまい、やがて墓石の建立が一般的となります。このようなことから板碑は中世を代表する石造物と言えます。
稲城市内の板碑
市内では現在268基の板碑が確認されています。緑泥片岩製だけでなく、最近伊奈石製の板碑が1点確認されました。高さは50から60センチ程の小型のものがほとんどです。地域別にみると、大丸地区が最も多くて102基、そして矢野口地区44基、平尾地区43基、坂浜地区30基、百村地区28基と続き、東長沼(5基)と押立(7基)の両地区は数が多くありません。(不明9基)分布状況は、古い集落や旧道の近くで、丘陵部と平野部の境界地域に多く、多摩川の氾濫原の地域には少ないという傾向がみられます。ただ板碑はその大きさから移動可能な石造物であり、多摩川の氾濫による流失や二次的な移動も考慮する必要があります。
市内最古の板碑は、正応2年(1289年)造立のもので、最も新しいものは天文5年(1536年)の造立です。この間の約250年間(鎌倉後期から室町後期)にわたって板碑の造立が続けられていますが、中でも1310年代から1390年代にかけてがやや盛行した時期といえます。
特色ある板碑
特色のある板碑について次にご紹介します。
矢野口の妙覚寺にある板碑(上記写真)は、地上高だけで112センチあり、市内最大でなおかつ形が整った保存状態の良好な板碑です。種子の阿弥陀三尊、「逆修道秀禅門」と刻まれた供養者名、享徳3年(1454年)の紀年銘などが明瞭に刻まれています。また市内唯一の例として、光明真言をあらわす梵字が4行にわたって記されています。
南関東地方では類例の少ない十三仏板碑が2基発見されています。この板碑は十三仏の種子を表したもので、五如来、七菩薩、一明王を集団として信仰する室町時代以降の民間信仰によって流行したものです。十三仏の配列が一般のものとは異なる特殊な配列になっているのも特徴的なところです。
平尾の入定塚から出土した板碑は、文字に金泥が残っているめずらしい板碑であり、塚に入定した長信法印という密教の僧侶の名が刻まれ、信仰の実態を示す貴重な史料となっています。
この他にも特色のある板碑として、神道板碑や時宗系の阿弥号板碑、「南無阿弥陀仏」と書かれた六字名号の板碑などがあります。また特殊な出土例として、大丸遺跡の斜面から発見された3か所の板碑群(計78基)があり、これらは他所から集められ二次的に再配置されたものと考えられています。
種字の種類
大丸遺跡出土の板碑群
十三仏板碑(稲城市蔵)