瓦谷戸窯跡から出土した瓦と磚
瓦谷戸窯跡の位置
瓦谷戸窯跡と出土遺物(東京都指定旧跡・東京都指定有形文化財)
稲城市大丸の市立病院西側の川崎街道沿いに瓦谷戸窯跡があります。この遺跡は、奈良時代に武蔵国分寺用の瓦を焼いた窯跡として知られていました。最初の発掘調査は、稲城村が主催して昭和31年に行われました。この調査では窯跡2基が発見され、これらの窯では武蔵国分寺創建期の瓦と武蔵国府関連の方形せんが生産されたことがわかりました。
平成10年には、川崎街道の拡幅工事に伴って2回目の発掘調査が行われました。この調査では、昭和31年の調査区域より西側部分の調査が行われました。平成9年に事前の確認調査が行われ、平成10年3月3日から本調査を開始しました。調査は、便宜上、東側からA・B・C地点を設定し、順次発掘を行いました。その結果、A地点から窯跡1基・灰原1か所、B地点から窯跡1基、C地点から灰原1か所を確認しました(灰原とは、窯にたまった灰を掻きだした場所で、窯の焚口の前面に灰や捨てられた瓦などが堆積している)。出土遺物は、丸瓦(男瓦)、平瓦(女瓦)、軒丸瓦(鐙瓦)、軒平瓦(宇瓦)、熨斗瓦、方形せん、長方形せん、須恵器などです。発掘調査は多くの成果を残して、平成10年8月17日に終了しました。
発掘された2基の瓦窯跡
A地点の東端から発見されたA号窯は、ほとんどがコンクリート擁壁により破壊されていて、わずかに焚口と前庭部の一部が残っている状態でした。全体の形態はわかりませんが、地下式の登窯である可能性が高いと思われます。窯跡南西側には灰原が広がっていました。
B号窯は、B地点のなかで稲城砂層をくりぬいて造られた地下式の有階有段の登窯です。ほぼ完全な形で発見され、窯体の大きさは、全長約6.5メートル、最大幅約1.8メートルの規模で、焚口から煙道上部までの高さは約5.5メートルあります。窯の焼成室には、瓦を焼くための7つの段が築かれており、段の一部には製品を置きやすくするために、「せん」による補強が行われていました。
窯跡内に描かれた馬の線刻画
B号窯内部の燃焼室右側壁から馬の線刻画が発見され、注目を集めました。側壁の約1メートル×0.6メートルの範囲に、棒状なもので刻まれた3頭の馬が描かれていました。下部に描かれた2頭は、鞍、ひずめ、たてがみなどが、勢いのある線で表現され、上部に描かれた1頭は、下部の2頭とは反対に単純な線で表現されていました。馬の線刻画については、カマド関係の祭祀に使われたのではないかと考えられています。窯をつくって火入れをする時に、火の神に対して祈ることは、現在でも行われている風習です。窯内部に馬の線刻画が描かれていたことは、日本で初めての発見です。
解文を刻んだ方形磚
解文は郷長から郡にあてた上申文で、方形せん(建物の床に敷くレンガ状の焼き物で、縦・横とも約28センチメートル、厚さ約8センチメートル)に描かれていました。文字は「蒲田郷長謹解申 武蔵国荏原郡」の13字で、「かまたごうのおさつつしみてげしもうす むさしのくにえばらぐん」と解読されます。蒲田郷(今の大田区周辺)の郷長から、品川・大田区の一部地域を治めていた荏原郡の役所にあてた上申文です。当時、国分寺造営に際して、国一郡一郷一戸という基本的な賦役体系が出来上がっていたことを示す貴重な資料です。また、解文を書くまえに文字を練習したとみられる「習書のせん」も同時に発見されています。
武蔵国分寺・武蔵国府との関係
瓦谷戸窯跡と武蔵国分寺・武蔵国府は、多摩川を挟んで直線距離にして約3.5から4キロメートルの至近の距離にあります。今回の調査で瓦谷戸窯跡で焼かれた瓦やせんが武蔵国分寺創建期と武蔵国府用であったことがわかりました。特に方形せんは武蔵国府用、長方形せんは武蔵国分寺用であることが明らかになりました。
引用参考文献.
『瓦谷戸窯跡発掘調査報告書』
『稲城市文化財研究紀要第2号・3号・4号』
B号窯の全景
窯跡内に描かれた馬の線刻画
解文の文字
解文を刻んだ方形磚