このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動
稲城市
  • サイトマップ
  • 検索の使い方
  • くらし・手続き
  • 子育て・教育
  • 健康・福祉・医療
  • 環境・ごみ・リサイクル
  • 観光・文化
  • 施設の案内
  • 市政の情報
サイトメニューここまで

本文ここから

玉川焼(たまがわやき)

更新日:2017年6月27日

玉川焼の歴史

坂浜の高勝寺こうしょうじ近くにある榎本えのもと家では、江戸時代後期にこの地で焼かれた「玉川焼」と呼ばれる陶器を所蔵しています。榎本家は坂浜村で代々農業を営む家でしたが、初代理兵衛りへえ元禄げんろく年間の人)の頃から、農閑期に付近の粘土を使って土瓶どびんやすり鉢などの雑器ざっきを焼いていたと言われ、「どびんや」という屋号やごうで呼ばれていました。その四代目に当たる利兵衛りへえは、瀬戸・京都方面に陶芸の修業に出て、この地方の陶器づくりの技術を身につけ、天保てんぽう5年(1834年)に坂浜村に帰って、稲城の地で陶器づくりを始めました。その後利兵衛は、玉印たまいんを商標とする玉川焼をつくり始め、盛んに商売を行いました。彼は榎本紫水えのもとしすいとか調布軒紫水ちょうふけんしすいという号を使っています。
榎本家に残っている玉川焼宣伝用の木版刷りのチラシによると、大丸瓦谷戸おおまるかわらがやとあたりの粘土で焼きはじめ、国分寺瓦にある「玉」の刻印(多摩郡の意)をとって商標としたことがわかります。また当時は、玉川焼のにせ物が多く出回っており、榎本家のものが元祖であることが記されています。宣伝文の中には、榎本家への道案内図が描かれています。
榎本紫水が没したのは慶応けいおう元年(1865年)のことですが、紫水の息子も榎本紫水の名前を名のっており、玉川焼自体は明治時代中期頃まで出回っていたと考えられます。しかし明治期の作品は、諸国の陶器を模倣もほうしたようなものが多く、初代の紫水の作品の方が優れていると言われます。

玉川焼の作品

現在榎本家に残っている玉川焼はいずれも楽焼らくやきで、抹茶茶碗まっちゃちゃわん香合こうごう、水差し、小皿、刻印、原型、匣鉢さやばち、木製のフイゴなどがあります。抹茶茶碗はもっとも数が多く、遺作の中心をなすものですが、中でもジャカゴと布晒ぬのさらしの模様の鉄絵てつえの茶碗(上記左側の写真の中央の作品)は代表的な優品です。香合では五角桔梗ききょう型のものが代表で、青磁せいじ風の作品です。また亀形香合や呉須ごす絵の丸香合などもあります。他には作品をつくる時に使った鶴・松・唐草紋からくさもんなどの原型、作品をつくる窯で使われた匣鉢さやばちと木製のフイゴなどがあります。
榎本家以外にも優品が残っています。坂浜の加藤家に所蔵されている天保てんぽう5年銘の陶額とうがくは、紫水自筆の銘があり、修業に出ていた紫水が天保てんぽう5年の冬に坂浜村に戻って窯業かまぎょうに従事し始めたことがわかります。玉川焼の製作年代を知る貴重な作品です。東京国立博物館にはうすきぬた呉須ごすで描き、低温で焼き上げた白釉はくゆう最中もなか香合こうごうが残っています。この作品の箱書はこがきには、榎本紫水銘と玉印の落款らっかんが記されています。また赤楽焼あからくやきの大型の獅子形香炉ししがたこうろは、力強く作られた優品です。
海外に流出した玉川焼も知られています。それは近代考古学の基礎をつくったことで知られるE・S・モース博士がアメリカに持ち帰ったもので、現在アメリカのボストン美術館に5点の玉川焼が収蔵されています。収集品カタログを見ると、大型の獅子形香炉1点、抹茶茶碗2点、香合2点が掲載されています。

このページについてのお問い合わせ

稲城市 教育部 生涯学習課
東京都稲城市東長沼2111番地
電話:042-377-2121 ファクス:042-379-0491

本文ここまで
このページの先頭へ

サブナビゲーションここから

稲城市の文化財一覧

情報がみつからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。
稲城市公式キャラクター稲城なしのすけ
〒206-8601 東京都稲城市東長沼2111番地
開庁時間 午前8時30分から午後5時 代表電話:042-378-2111 ファクス:042-377-4781
Copyright (C)Inagi City. All rights reserved. 
Copyright (C)K.Okawara ・ Jet Inoue. All rights reserved.
フッターここまでこのページのトップに戻る