玉川焼の抹茶茶碗
玉川焼の宣伝用チラシ
玉川焼の歴史
坂浜の高勝寺近くにある榎本家では、江戸時代後期にこの地で焼かれた「玉川焼」と呼ばれる陶器を所蔵しています。榎本家は坂浜村で代々農業を営む家でしたが、初代理兵衛(元禄年間の人)の頃から、農閑期に付近の粘土を使って土瓶やすり鉢などの雑器を焼いていたと言われ、「どびんや」という屋号で呼ばれていました。その四代目に当たる利兵衛は、瀬戸・京都方面に陶芸の修業に出て、この地方の陶器づくりの技術を身につけ、天保5年(1834年)に坂浜村に帰って、稲城の地で陶器づくりを始めました。その後利兵衛は、玉印を商標とする玉川焼をつくり始め、盛んに商売を行いました。彼は榎本紫水とか調布軒紫水という号を使っています。
榎本家に残っている玉川焼宣伝用の木版刷りのチラシによると、大丸瓦谷戸あたりの粘土で焼きはじめ、国分寺瓦にある「玉」の刻印(多摩郡の意)をとって商標としたことがわかります。また当時は、玉川焼のにせ物が多く出回っており、榎本家のものが元祖であることが記されています。宣伝文の中には、榎本家への道案内図が描かれています。
榎本紫水が没したのは慶応元年(1865年)のことですが、紫水の息子も榎本紫水の名前を名のっており、玉川焼自体は明治時代中期頃まで出回っていたと考えられます。しかし明治期の作品は、諸国の陶器を模倣したようなものが多く、初代の紫水の作品の方が優れていると言われます。
玉川焼の作品
現在榎本家に残っている玉川焼はいずれも楽焼で、抹茶茶碗、香合、水差し、小皿、刻印、原型、匣鉢、木製のフイゴなどがあります。抹茶茶碗はもっとも数が多く、遺作の中心をなすものですが、中でもジャカゴと布晒しの模様の鉄絵の茶碗(上記左側の写真の中央の作品)は代表的な優品です。香合では五角桔梗型のものが代表で、青磁風の作品です。また亀形香合や呉須絵の丸香合などもあります。他には作品をつくる時に使った鶴・松・唐草紋などの原型、作品をつくる窯で使われた匣鉢と木製のフイゴなどがあります。
榎本家以外にも優品が残っています。坂浜の加藤家に所蔵されている天保5年銘の陶額は、紫水自筆の銘があり、修業に出ていた紫水が天保5年の冬に坂浜村に戻って窯業に従事し始めたことがわかります。玉川焼の製作年代を知る貴重な作品です。東京国立博物館には臼と砧を呉須で描き、低温で焼き上げた白釉の最中香合が残っています。この作品の箱書には、榎本紫水銘と玉印の落款が記されています。また赤楽焼の大型の獅子形香炉は、力強く作られた優品です。
海外に流出した玉川焼も知られています。それは近代考古学の基礎をつくったことで知られるE・S・モース博士がアメリカに持ち帰ったもので、現在アメリカのボストン美術館に5点の玉川焼が収蔵されています。収集品カタログを見ると、大型の獅子形香炉1点、抹茶茶碗2点、香合2点が掲載されています。
天保5年銘の陶額(加藤家蔵)
結び文型の水差し
玉川焼制作に使われたサヤバチ
玉川焼製作に使われたフイゴ
モース博士が収集した玉川焼(中段左側5点)
大型の獅子型香炉