稲城市

いなぎの歴史

最終更新日:2013年8月30日

原始(げんし)・古代(こだい)のいなぎ

稲城市(いなぎし)では、原始(げんし)・古代(こだい)の遺跡(いせき)が160か所あまりも発見(はっけん)されています。約2万年前の旧石器(きゅうせっき)時代から始(はじ)まり、縄文(じょうもん)時代、弥生(やよい)時代、古墳(こふん)時代、奈良(なら)時代と続(つづ)きます。これらの遺跡(いせき)からは、当時(とうじ)の人々(ひとびと)が使った土器(どき)や石器(せっき)、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の跡(あと)などが発見(はっけん)され、原始古代(げんしこだい)の人々の生活(せいかつ)の様子(ようす)を物語(ものがた)っています。原始古代(げんしこだい)の遺跡(いせき)は、多摩丘陵(たまきゅうりょう)のなかの地域(ちいき)から発見(はっけん)されることが多く、当時(とうじ)の稲城市域(いなぎしいき)は、とても住(す)みやすい場所(ばしょ)であったと思われます。
市内(しない)の遺跡(いせき)から発見(はっけん)された土器(どき)や石器(せっき)は、稲城市(いなぎし)郷土資料室(きょうどしりょうしつ)でみることができます。
郷土資料室(きょうどしりょうしつ)

くわしい内容(ないよう)を調(しら)べるためには、次の本が参考(さんこう)になります。

画像 発見された奈良時代の瓦
発見された奈良時代の瓦

江戸時代(えどじだい)のいなぎ

江戸時代(えどじだい)になると、人々(ひとびと)は村(むら)を単位(たんい)として生活(せいかつ)していました。当時(とうじ)の稲城市域(いなぎしいき)には、矢野口(やのくち)村、長沼(ながぬま)村、大丸(おおまる)村、百村(もむら)、坂浜(さかはま)村、平尾(ひらお)村の6か村がありました。これらの村々(むらむら)は米(こめ)づくりを中心(ちゅうしん)とした村で、農民(のうみん)の代表者(だいひょうしゃ)として名主(なぬし)が村の政治(せいじ)にあたりました。
江戸時代(えどじだい)につくられたものに、大丸用水(おおまるようすい)があります。大丸(おおまる)の多摩川(たまがわ)から水を引(ひ)き入れてつくった農業用水(のうぎょうようすい)で、大丸(おおまる)村、長沼(ながぬま)村、矢野口(やのくち)村及び下流(かりゅう)の村々(むらむら)の田んぼで水を使いました。米づくりにとって、大丸用水(おおまるようすい)の水は大変(たいへん)きちょうなものでした。
江戸時代(えどじだい)の資料(しりょう)や大丸用水(おおまるようすい)のことは、稲城市郷土資料室(いなぎしきょうどしりょうしつ)で見ることができます。
くわしい内容(ないよう)を調(しら)べるには、次の本が参考(さんこう)になります。

画像 江戸時代につくられた大丸用水
江戸時代につくられた大丸用水

近代(きんだい)のいなぎ

明治時代(めいじじだい)から昭和(しょうわ)20年8月の終戦(しゅうせん)(戦争(せんそう)が終(お)わった時(とき))までを、近代(きんだい)といいます。明治(めいじ)22年4月に6か村が合併(がっぺい)して、稲城村(いなぎむら)が誕生(たんじょう)しました。明治(めいじ)26年には、神奈川(かながわ)県(けん)の南多摩郡稲城村(みなみたまぐんいなぎむら)から東京府(とうきょうふ)の南多摩郡稲城村(みなみたまぐんいなぎむら)にかわりました。
明治時代(めいじじだい)から、稲城(いなぎ)の梨(なし)づくりは盛(さか)んになりました。明治(めいじ)30年代に「長十郎(ちょうじゅうろう)」、「二十世紀(にじゅっせいき)」といった梨(なし)が稲城(いなぎ)で生産(せいさん)されるとさらに梨(なし)づくりが盛(さか)んになりました。(稲城(いなぎ)の梨(なし)づくりの始(はじ)まりは、江戸時代(えどじだい)からです。)
昭和(しょうわ)2年には南武鉄道(なんぶてつどう)(現在(げんざい)の南武線(なんぶせん))が大丸(おおまる)まで開通(かいつう)しました。また昭和(しょうわ)10年には多摩川原橋(たまがわらばし)が開通(かいつう)し、だんだんと生活(せいかつ)が便利(べんり)になりました。
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画像 梨の出荷箱と梨かご
梨の出荷箱と梨かご

現代(げんだい)のいなぎ

昭和(しょうわ)20年8月に戦争(せんそう)が終(お)わりました。それからあとの時代(じだい)を現代(げんだい)といいます。戦争(せんそう)によって稲城(いなぎ)の農業(のうぎょう)は、生産量(せいさんりょう)が少なくなっていましたが、しだいに回復(かいふく)してきました。昭和(しょうわ)23年には農業協同組合(のうぎょうきょうどうくみあい)が作られ、米(こめ)づくりや梨(なし)づくりはだんだんと盛(さか)んになってきました。戦争(せんそう)によって、一時(いちじ)少(すく)なくなった村の人口(じんこう)もしだいに増(ふ)えてきました。
昭和(しょうわ)24年9月には、押立地域(おしたてちいき)が多磨村(たまむら)(現在(げんざい)の府中市(ふちゅうし))から稲城村(いなぎむら)に編入(へんにゅう)されました。昭和(しょうわ)32年4月には、人口(じんこう)が増(ふ)えて、稲城町(いなぎまち)となりました。この時(とき)の人口(じんこう)は、10,145人です。昭和(しょうわ)46年11月には、さらに人口(じんこう)が増(ふ)えて、稲城町(いなぎまち)から稲城市(いなぎし)となりました。この時(とき)の人口(じんこう)は、36,800人です。
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画像 現代に伝わる江戸の里神楽(国指定文化財)
現代に伝わる江戸の里神楽(国指定文化財)