いなぎの歴史
原始・古代のいなぎ
稲城市では、原始・古代の遺跡が160か所あまりも発見されています。約2万年前の旧石器時代から始まり、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代と続きます。これらの遺跡からは、当時の人々が使った土器や石器、竪穴住居の跡などが発見され、原始古代の人々の生活の様子を物語っています。原始古代の遺跡は、多摩丘陵のなかの地域から発見されることが多く、当時の稲城市域は、とても住みやすい場所であったと思われます。
市内の遺跡から発見された土器や石器は、稲城市郷土資料室でみることができます。
郷土資料室
- 郷土資料室の住所は稲城市平尾1丁目9番地1です。ふれんど平尾の2階にあります。
- 開館時間は午前9時から午後5時までです。毎週月曜日はお休みです。
くわしい内容を調べるためには、次の本が参考になります。
- 『稲城のあゆみ改訂版』
- 『稲城の歴史と文化財』などです。

原始・古代のいなぎ
江戸時代になると、人々は村を単位として生活していました。当時の稲城市域には、矢野口村、長沼村、大丸村、百村、坂浜村、平尾村の6か村がありました。これらの村々は米づくりを中心とした村で、農民の代表者として名主が村の政治にあたりました。
江戸時代につくられたものに、大丸用水があります。大丸の多摩川から水を引き入れてつくった農業用水で、大丸村、長沼村、矢野口村及び下流の村々の田んぼで水を使いました。米づくりにとって、大丸用水の水は大変きちょうなものでした。
江戸時代の資料や大丸用水のことは、稲城市郷土資料室で見ることができます。
くわしい内容を調べるには、次の本が参考になります。
- 『稲城のあゆみ改訂版』
- 『稲城の歴史と文化財』などです。

近代のいなぎ
明治時代から昭和20年8月の終戦(戦争が終わった時)までを、近代といいます。明治22年4月に6か村が合併して、稲城村が誕生しました。明治26年には、神奈川県の南多摩郡稲城村から東京府の南多摩郡稲城村にかわりました。
明治時代から、稲城の梨づくりは盛んになりました。明治30年代に「長十郎」、「二十世紀」といった梨が稲城で生産されるとさらに梨づくりが盛んになりました。(稲城の梨づくりの始まりは、江戸時代からです。)
昭和2年には南武鉄道(現在の南武線)が大丸まで開通しました。また昭和10年には多摩川原橋が開通し、だんだんと生活が便利になりました。
くわしい内容を調べるには、次の本が参考になります。
- 『稲城のあゆみ改訂版』
- 『稲城市の歴史と文化財』などです。

現代のいなぎ
昭和20年8月に戦争が終わりました。それからあとの時代を現代といいます。戦争によって稲城の農業は、生産量が少なくなっていましたが、しだいに回復してきました。昭和23年には農業協同組合が作られ、米づくりや梨づくりはだんだんと盛んになってきました。戦争によって、一時少なくなった村の人口もしだいに増えてきました。
昭和24年9月には、押立地域が多磨村(現在の府中市)から稲城村に編入されました。昭和32年4月には、人口が増えて、稲城町となりました。この時の人口は、10,145人です。昭和46年11月には、さらに人口が増えて、稲城町から稲城市となりました。この時の人口は、36,800人です。
くわしい内容を調べるには、次の本が参考になります。
- 『稲城のあゆみ改訂版』
- 『稲城市の歴史と文化財』などです。

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稲城市郷土資料室
〒206-0823 東京都稲城市平尾1-9-1
電話番号:042-331-0660 ファクス番号:042-331-0660
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