梨づくりの歴史

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ページID1003791  更新日 令和7年2月20日

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江戸時代の梨づくり

稲城でいつ頃から梨栽培が始まったかは、古い記録がないために明らかではありませんが、言い伝えによると元禄年間に長沼村の代官増岡平右衛門と川島佐治右衛門が、山城国(京都府東南部)に公用ででかけ、その帰りに「淡雪という梨の苗を持ち帰ったのが最初と言われます。その原木は明治22年まで東長沼の川島家の前庭にあり、幹囲りが6尺(約180センチ)、枝張り30坪(約100平方メートル)の大木であったといいます。その後梨栽培は少しずつ広まり、江戸時代の末には長沼村・矢野口村あたりで十数戸の栽培農家があったと記されています。

写真:梨の包み紙
梨の包み紙
写真:梨の出荷箱と梨かご
梨の出荷箱と梨かご

明治時代以降の梨づくり

梨栽培が本格化したのは明治時代以降で、梨づくりの組合が各地に誕生します。東長沼村では明治17年に13名の農家により「共盟杜」が設立され、さらに明治37年には「東長沼梨山組合」へと発展します。矢野口村では明治35年に「矢野口梨山懇親会」が設立されます。ともに梨の苗木や肥料などの共同購入、共同出荷が行われました。明治時代の後半には、梨栽培は急速に増加しますが、その要因は明治33年の新品種「長十郎」の導入でした。

川崎の大師河原でつくられた甘味の強い長十郎は稲城の梨栽培の主流として広く栽培されるようになります。また明治38年頃には新品種「二十世紀」も導入され、稲城の梨栽培は栽培面積の増大とともに販路も拡大していきました。明治時代後半の販路は、西は八王子から青梅、東は東京市内、北は所沢、南は横浜まで広がっていました。明治の中頃から始まった水田の梨畑化は、大正時代になっても続きました。大正8年には稲城果実生産組合ができ、技術の向上、販路の拡大が進められました。昭和2年には多摩川沿いの梨生産の組合が団結して、多摩川果物生産組合連合会が生まれ、昭和7年には「多摩川梨」という統一名称も誕生しました。この頃が梨生産の黄金時代といえそうです。昭和20年代後半からは観光梨園化が進み、街頭販売も盛んになりました。しかし昭和30年代に1つのピークを迎えた梨栽培は昭和40年代から徐々に下降線をたどっています。

稲城で栽培されている梨の種類
種類 収穫時期
長寿 8月上旬から8月中旬
多摩 8月上旬から8月下旬
幸水 8月下旬から9月上旬
新世紀 8月下旬から9月上旬
8月下旬から9月上旬
稲城 8月下旬から9月上旬
清玉 8月下旬から9月下旬
長十郎 9月上旬から9月下旬
二十世紀 9月上旬から9月下旬
菊水 9月上旬から9月下旬
秀玉 9月上旬から9月中旬
豊水 9月中旬から9月下旬
新高 9月下旬から10月上旬
新泰平 10月上旬から10月中旬
吉野 10月上旬から10月下旬
新星 10月上旬から10月下旬
新雪 10月下旬から11月上旬
秀峰 10月下旬から11月上旬
新興 10月下旬から11月上旬
愛宕 10月下旬から11月上旬

稲城、清玉、新泰平、吉野の4品種は、稲城で誕生した梨です。

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